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日本は本当に「格差社会」なのか 社会学者、関西大学東京センター長・竹内洋

2015.3.3 05:02 産経ニュース

ピケティの『21世紀の資本』が話題になり、格差問題が再燃している。資本主義そのものに格差を低減するメカニズムはなく、放置すれば、格差社会が進行するだけだ、とする。

格差が是正されたのは、第一次大戦と第二次大戦の戦争によるものである。富裕層の資産が破壊されたことや戦後の高度成長によって中・下位層の所得や資産が 増大したからである。しかし、これを例外の時期とし、再び経済格差が拡大している。資産と所得の累進課税の強化が講じられなければ、21世紀は19世紀の 格差社会に匹敵するか、それ以上の大格差社会になる。このように言う。

《文化や社会で伸び縮みする》

格差は人々のやる気を喚起させ、経済成長にもつながるが、他方では危険な火種ともなる。平等を理念としている現代社会では格差をめぐる理不尽さの閾値(い きち)が下がるからである。多くの人々が所属する社会を理不尽な大格差社会と認知するようになれば、同胞感情をもてなくなる。社会につながれていないと思 うことで規範意識が低下する。凶悪犯罪が多発する危険社会になりかねない。

しかし、格差は社会を活性化させる誘因でもある。格差を無限に縮小していけばよいというものでもない。どの程度の格差が公正にもとるのか。危険水 域になるのか。その目安をつけるのは簡単ではない。どのくらいの格差であれば妥当とみなされるかは、格差を許容する文化に左右される。能力主義幻想の強い 社会であれば、妥当な格差の上限が上がる。逆に結果の平等が望ましいとする社会であれば、その天井は低くなる。許容される妥当な格差は、社会によって、ま た同じ社会でも時代によって伸び縮みする。

そこでおおまかに危険水域を考える指標としては、日本を他の複数の先進国の格差と比較すること から格差が大きいかどうかがわかるだろう。もうひとつの指標は、日本における格差が増大傾向にあるかどうかであろう。そうみてくると、日本の経済格差は微 妙なところにある。ピケティのデータでは、日本も経済格差は増大しつつあるが、アメリカや他の先進国などと比べれば格差は小さいからである。

《驚くべきOECDの調査報告》

経済格差をもたらす大きな要因のひとつが教育格差である。日本の教育格差も経済格差と同じように微妙なところにある。

教育格差とは家庭の経済力や文化資産の違いによる子供の学力や学歴への影響の大きさである。家庭の影響の度合いが小さければ教育格差が小さく、反 対に家庭の影響力が大きいほど、教育格差が大きいことになる。近年の日本の教育学者の研究のほとんどは教育格差が拡大しているというものである。ここらあ たりは、しばしば報道されているからよく知られている。ここまでは、ピケティの、日本でも経済格差が増大しつつあるという見立てと対応する教育格差拡大の 知見である。

ところが、こういう教育格差拡大の知見ばかりを耳にしている人には驚くべき調査結果もある。最新(2012年)の『OECD 生徒の学習到達度調査』である。保護者の職業や学歴、家庭の文化的所有物などによる「生徒の社会経済文化的背景」と学力の関係を調査したものである。

まず生徒の社会経済文化的背景の違いという教育格差で、日本は調査国(13カ国)中もっとも小さいことに驚くだろう。続いて家庭の社会経済文化的背景が生 徒の学力にどのくらい影響しているかをみている。13カ国で家庭の影響力の小さい順でみると、日本は「科学的リテラシー」で1位、「読解力」で2位、「数 学的リテラシー」で3位。フィンランドや韓国とともに、日本は、先進国の中では家庭の経済力や文化力による生徒の学力格差の影響が小さく、かつ平均学力が 高い群にある。

《根拠に目配りした複眼の論議を》

この調査結果については、マスコミでは大きな話題にはならなかった。ここにもあそこにも格差があるという格差探しの空気の中では、不都合な事実だったからではないか。まして教育格差拡大に警鐘乱打する教育学者でこれにふれる者はほとんどいない。

この経済格差と教育格差の二重性、つまり格差拡大傾向にもかかわらず、先進国水準では格差は小さいという特徴は、われわれの格差をめぐる体感とも合致して いないだろうか。日本の格差をめぐる人々の評価が格差社会という悲観的評価と相対的に平等社会という楽観的評価の両極に分かれがちな所以(ゆえん)が、こ の二重性にある。コップの中の半分の水をめぐって、あと半分しかないとみるのと、まだ半分もあるとみるのとの違いのようなところがある。

格差を論ずることも格差是正の施策を実行することも大事であるが、危険水域であるとする側、まだ危険水域には至っていないとする側のどちらかにだけ立つのではなく、両方の格差観とその根拠に目配りした複眼の格差論議であってほしいと思うのである。(たけうち よう)